罠を張る。

無防備な君が、決して逃げられないように。

甘く、巧みに誘い込む。




【4月30日 16:13 4F端 空教室】


埃っぽい空気が蔓延する薄暗い教室の中。
滑りの悪い扉を背にゆったりと佇んで、微笑を浮かべる長身の人物が一人。
そして、教室の壁に張り付いて距離を保ちながらも、真正面の射殺すように見つめる小柄な人物が一人。

「瀬波サン、そろそろ諦めて、これにサインしません?」

前者の人物が、言葉はまるで悪徳業者のごとく、顔は天使のような穏やかな笑顔で言った。
か弱さを感じさせないぎりぎりの程度のしなやかな右腕が、ヒラヒラと「運営委員会庶務任命書」と書かれた書類を、目の前の人物に見せ付けるように胸の前で振ってみせる。

「真っっっ平ごめんです。」

後者の人物が、言葉は硬質に強調。顔は仇を見るようなガンを飛ばして言った。
全体的に細く小さい体を、まるで傷を負った小動物のように強張らせ、目の前の大きい獣に食われまいと必死の抵抗をしているようである。

「先日から何度も言っているように、私は庶務の仕事をするつもりはありません。
高等部から入学してきた外部生ですし、もっと優秀でこの学校の制度を熟知した人物を選んでくださいと言ってるじゃないですか!そ・れ・に・私は男性が嫌いなんです!!男性ばかりの運営委員なんてお断りです!」

後者、こと皐月ははっきりとした口調で、凛と言い放った。
その目は挑戦的で、小さな全身からは「絶対承諾なんかするもんか」という意思がありありと見て取れた。

そんな彼女の様子を、前者、こと迅は書類で口元を隠しながら、微笑んだ。


彼がこの教室に彼女を求めてやってきたのは十数分前。
ガラリと4F端の空教室の扉を開けた自分に、彼女はこれでもかというほど目を見開いて驚愕していた。なんでこの場所がわかったのか、と。
しかし、次の瞬間には脱兎の如く教室の隅へと直走り、自分との距離を取って威嚇してきたのだ。
その様といったら、もう。


皐月の反応をよそに、迅は相変わらずゆったり構え、目の前の標的を見つめる。
しかし不意に、涼しげなその目元が薄暗い教室の時計に向けられたかと思うと、どこか意地悪そうに細められたのは、目の錯覚か。



「理路整然としたその物言い。気丈に振舞うのがうまいんだね。
でもごまかしても俺には通じない。足が震えてるよ、瀬波サン?」

「!」

窓際に佇んでいる彼女のスカートから出る細い足が、小刻みに震えていることを、初め対峙したときから迅はとっくのとうに見抜いていた。

彼女は男が嫌いだと言う。男子には目もくれない。
それどころか少し近付こうものなら、メデューサのごとく視線で殺される。
数少ない外部生の彼女が高等部へ入学してから、たったの2週間で『校内屈指の男嫌い』と言われたのも無理はない。

しかし、だ。
学内は共学、彼女がどんなに男嫌いでも男子と共同の作業は必ずある。
不意でも、故意でも男子との接触は避けられない。
廊下で歩いているとき、教室のドアですれ違うとき、授業の実験や班活動、それこそ数えていれば切がない。
そしてそのどんなときでも彼女は常に気を張って、男子と距離をとろうとしているのだ。
廊下を歩くとき、極力彼女は一人では歩かない。常に4,5人の女友達の中で隠れるように歩いている。
教室のドアでもすれ違いも、なるだけ距離が近づかないように彼女は必ず「一人」でドアをくぐる。反対方向から同じ方向から、「二人」の人間がドアを一緒にくぐる事がないようにしているのだ。
実験も彼女は男子の共同作業になりそうなものには手を出さない。一人で黙々と自分の作業に没頭している。彼女と同じ班になる女子が風邪で休みのとき、実験の前の時間までは普通に授業に参加していたのに、その時間になったとたん姿を消すものだから、彼女と同じ班の男子は「そこまで嫌うか」と怒りを通り越してあきれていた。
班活動も同じこと。

男が嫌いということなら、彼女が「嫌いだから」といって、あそこまで距離をとることはないのではないか、と迅は思う。
嫌いだから近づきたくない、というのは理屈としてはわかるが少々彼女の場合は極端だ。

とすると、結論は一つ。「男嫌い」の異名は動詞の部分を間違えてる。



「男が『嫌い』じゃなくて、男が『怖い』ですよね?」

探るような目で迅が問いかけると、皐月の顔は薄暗い中でもはっきりと解るほど血の気を引かせた。
壁に貼り付けていた皐月の細い肩が、これまで以上にはっきりと震え始めるものの、彼女の瞳は爛々と輝き、先ほどと変わらない強気な光を称えている。

「ち、違います!!それにそんなこと貴方に関係ないでしょ!!」

「関係ない?何で?それってこれから一緒に仕事をする上で、大事な対人関係の確認事項じゃないですか?」


迅は一歩一歩彼女との距離を縮めて行く。
その度に彼女の目の強気な光が歪んでゆく。

「い、いや・・・」

「何が<いや>何ですか?嫌いだから?それとも・・・怖いから?」


ついに目の前まで迫られて、皐月はこれまでの威勢のよさとは対照的に、ぎゅっと目を閉じて大人しくなった。

「お願い・・・・来ないで・・・・」

手を伸ばせば、すっぽりと腕に収まってしまうであろう小さな体を見下ろしながら、迅は苦笑した。

予想通りの結果。彼女は「男」が「怖い」のだ。
でも生憎「それ」で彼女を諦めるつもりは毛頭ない。
彼女が「男が怖い」以上、彼女との関係を密にしたければ、それが公然と許される後ろ盾が不可欠だ。何のつながりもなしに男性恐怖症の女性の気を引くのはいくら何でも難しいだろう。
それでいくと運営委員会という名目で、自分の下におくのは正にもってこい。
こんな機会、逃す方が馬鹿げてる。

あまりの接近に皐月のほうが根を上げた。
目に涙を浮かべて、がむしゃらに自分の横を通り過ぎようとするところを、あっさりと長い腕で制して行く手を遮る。
片腕でもゆうに余る華奢な肩を掴んで、背中に腕を回し、震える体を慎重に抱え込みだ。

「っ!!」

皐月が声にならない悲鳴をあげ、体をこれ以上ないほど強張らせた。

「ヤッ!お・・・願い・・・離し・・・うッ」

徐々に体の震えが大きくなり、声が涙を帯びてくる。
迅は、それでも皐月を抱きしめるのをやめなかった。

何がここまで彼女を「男」に怯えさせるのか、迅はその理由を知らない。

ま、それはこれから知ればいい。


自分は優しい男ではない。
彼女が欲しい、その目的のために「男」を怖がる彼女に対し優しく接することなど無意味だ。
彼女もそれを拒むだろう。それなら、力で押し切るまで。


腕の中で皐月が必至に暴れている。必死に自分の体との間を取ろうと迅の胸に手をあて突っ張るが、もちろん迅は皐月が叶うような力では抱いてやらなかった。

「皐月」

「な、名前で呼ばないでよ!!」

必死の虚勢さえも迅の支配欲を、秘めた恋情を煽るだけ。

「どうしても、運営委員会に入るのはイヤ?」

「絶ッッッ対、イヤ!!」

「・・・・・じゃあしょうがないな・・・・・」










迅は屈んで皐月の耳元で、低く、艶やかに囁いた。

「ここで俺のモノになるのと、委員会入るの、どっちがいい?」

まあ、俺は前者の方がいいんだが?そのために委員会入れるんだし?

・・・・・・皐月の全身が迅の腕の中で凍りついた。




迅は皐月の頭上でひそかに微笑む。

彼女を屈服させるための弱点は掴んだ。
それは他ならぬ自分自身。


もう逃がさない。